歴史を感じる現在
先月から、「清水城跡調査整備保存活用推進協議会」の『清水城ガイド養成講座』が始まりました。
これから徐々に、清水城の価値が見直されていくことと期待が膨らむところです。
さて、清水城は、島津当主7代元久から14代勝久まで8世、およそ150年間島津氏が居城としたところです。
はじめ7代元久は、東福寺城に入りますが、手狭であるとして清水城を築き、1378年(嘉永元年)に移り住みました。
元久は信仰心が厚く、叔父石屋禅師に傾倒していたため、1394年(応永元年)島津氏の菩提寺として福昌寺を建立し、初代住職に石屋禅師を招きました。
そして、一人息子の梅寿をその弟子とし、福昌寺3世の法燈を継がせました。(のちの仲翁守邦(ちゅうおうしゅほう)
そもそも元久が一人息子を出家させたためにそれ以来、この清水城時代の約150年間は、ほとんど島津家家督争いの時代だったようです。(なんで元久は、一人息子を出家させたんだょ~ん。by元久家臣)
そして11代忠昌は父である10代立久が早くに亡くなったために、12歳で守護職を継ぎました。
この忠昌は、薩摩、大隅、日向三国の争いを回避しようと、安定、平和のために病魔に犯されながらも死力を尽くしましたが、残念ながらその願いは叶えられず、再び、各地の豪族達の主導権争いや下刻上的反乱が起こりだしました。
病気にも戦いにも疲れ果てた忠昌は、清水城で突然自刃して46歳の生涯を終わりました。
しかし、忠昌の時代は、文化が普及した時代でもあり、学僧で有名な桂庵玄樹を鹿児島に招き、多くの人がその教えを受けました。
その一人が、大龍寺開祖の文之和尚です。
昨日、大龍小学校校長先生から、今月末(9/30)、大龍小学校に日南市より訪問団の方が来られる、という話をお聞きしました。
それは、文之和尚が日南出身だからだそうです。(個人的に、とても驚いたのですが、私だけかな。)
過去の出来事が、今の私達にまでつながっていることを感じさせられる日南市訪問団のお知らせでした。
於春