加治木のかもだ商店街で学んだこと
2009年04月20日
昨日は、個人的に 加治木のかもだ商店街で開催されたイベント「男達のマルシェ」に
初めて 売り子 として参加しました。

横で、友人の 巧 の技をみながら
初めての接客に 緊張しながらでしたが
まわりの皆さんのフォローもあり
とても楽しい時間を過ごすことができました。
会場では、いろんな事を学んだ気がします。
詳しくは、まだまとめきっていないので
まとめてから、また このブログ記しておこうとおもいます。
今回は この鹿児島地域ブログ「チェスト!」でブログを書いている
男性のブロガーが中心となって
県内各地から、地域おこしをがんばっている人たちのあつまりということで
かなり連帯意識が高く、一体感のあるイベントだったと思います。
規模は小さいながらも、加治木の商店街の地域振興の一助になればという熱い思いを感じるのに 充分すぎるほどのイベントだったと思います。
一つのイベントを盛り上げていくのに
距離は関係なく協力できること
そして、点在している、同じ志をもった人たちの存在が
とても嬉しく感じられました。
「この街を、もっとよくしたい。」
その思いは、どの場所でも 同じだということ
その思いで、毎日がんばっている人たちがいること。
その先に見据えているのは
今という 瞬間 だけでなく、継続的に子供達、その子供達と、世代を超えて
みんなが しあわせでいてほしいという願いがこもっているように感じました。
本当は、みんな自分が生きていくことで 精一杯な はずなのに
遠くは 枕崎 から、昼食をとる時間もおしんで
朝早くの準備から、夕方遅くの片付けまで
自分の得にはならないだろうことをやっている男達の姿に
本当に感動しました。
多分、得 にはならないけど
まちがいなく、徳 になると思う。
そして、みんなにとって特別な人 特 になると思います。
いままで、自分のやってきたことに
少なからず、不安をもっていました。
本当に、街の為になっているのか?
自己満足じゃないのか?
そんな事を思ったこと 一度や二度じゃありません。
いまこの日記を書いている この瞬間でも
本当は、いろんな大丈夫だろうかってのはあるし
正直 迷いっぱなしです。
無駄じゃないだろうかという 気持ちもあります。
でも、昨日 みんなと出会って
本当に 自分が たった一つの 点 でない事がわかりました。
その点は、いつの日か 連なって 線 となり
また、いつの日か 面 となる。
そう 確信できた 価値ある一日 でした。
今日からも また がんばれそうです。
初めて 売り子 として参加しました。
横で、友人の 巧 の技をみながら
初めての接客に 緊張しながらでしたが
まわりの皆さんのフォローもあり
とても楽しい時間を過ごすことができました。
会場では、いろんな事を学んだ気がします。
詳しくは、まだまとめきっていないので
まとめてから、また このブログ記しておこうとおもいます。
今回は この鹿児島地域ブログ「チェスト!」でブログを書いている
男性のブロガーが中心となって
県内各地から、地域おこしをがんばっている人たちのあつまりということで
かなり連帯意識が高く、一体感のあるイベントだったと思います。
規模は小さいながらも、加治木の商店街の地域振興の一助になればという熱い思いを感じるのに 充分すぎるほどのイベントだったと思います。
一つのイベントを盛り上げていくのに
距離は関係なく協力できること
そして、点在している、同じ志をもった人たちの存在が
とても嬉しく感じられました。
「この街を、もっとよくしたい。」
その思いは、どの場所でも 同じだということ
その思いで、毎日がんばっている人たちがいること。
その先に見据えているのは
今という 瞬間 だけでなく、継続的に子供達、その子供達と、世代を超えて
みんなが しあわせでいてほしいという願いがこもっているように感じました。
本当は、みんな自分が生きていくことで 精一杯な はずなのに
遠くは 枕崎 から、昼食をとる時間もおしんで
朝早くの準備から、夕方遅くの片付けまで
自分の得にはならないだろうことをやっている男達の姿に
本当に感動しました。
多分、得 にはならないけど
まちがいなく、徳 になると思う。
そして、みんなにとって特別な人 特 になると思います。
いままで、自分のやってきたことに
少なからず、不安をもっていました。
本当に、街の為になっているのか?
自己満足じゃないのか?
そんな事を思ったこと 一度や二度じゃありません。
いまこの日記を書いている この瞬間でも
本当は、いろんな大丈夫だろうかってのはあるし
正直 迷いっぱなしです。
無駄じゃないだろうかという 気持ちもあります。
でも、昨日 みんなと出会って
本当に 自分が たった一つの 点 でない事がわかりました。
その点は、いつの日か 連なって 線 となり
また、いつの日か 面 となる。
そう 確信できた 価値ある一日 でした。
今日からも また がんばれそうです。
上竜尾町
2008年12月01日
上竜尾町よりPRと上町浪漫への激励をいただきました。

上竜尾町町内会長 織田 宗明さん
(上竜尾町のPR)
お金はなくても、心豊かに暮らせる町。そして、隣近所、助け合って、健康に暮らせる町です。
(上町のまちづくりに対して)
上竜尾町は、会員数488世帯。
上町でも広範囲に広がる町区域で、坂元・蒲生線の沿線に住宅地が並び下水道の整備などがされていないところがあります。
また、最近では離合もできない狭い道幅の住宅街の奥にマンション建設を計画している場所があるので、それも困っています。
いつまでも、安心して暮らし続けられる町づくりを望んでいます。
○編集者よりミニ知識&みどころ
昔の浄光妙寺(現在の南洲神社、南洲墓地を含む)周辺の丘は
龍ケ尾丘といい、龍が住んでいたという言い伝えがあります。
自分と同じ世代の人であれば、龍の住む丘があると聞けば
すぐに、ドラゴンボールを集めて、南洲神社に上って、3つの願いを叶えようとするかもしれません。
この丘には、初代島津忠久を祀った龍ヶ尾神社があったといわれていますが
この龍ヶ尾から、竜尾の地名に
そして、南洲門前通りの参道を分かれ目として
上座(右側)が上竜尾
下座(左側)が下竜尾となっています。
上竜尾町町内会長 織田 宗明さん
(上竜尾町のPR)
お金はなくても、心豊かに暮らせる町。そして、隣近所、助け合って、健康に暮らせる町です。
(上町のまちづくりに対して)
上竜尾町は、会員数488世帯。
上町でも広範囲に広がる町区域で、坂元・蒲生線の沿線に住宅地が並び下水道の整備などがされていないところがあります。
また、最近では離合もできない狭い道幅の住宅街の奥にマンション建設を計画している場所があるので、それも困っています。
いつまでも、安心して暮らし続けられる町づくりを望んでいます。
○編集者よりミニ知識&みどころ
昔の浄光妙寺(現在の南洲神社、南洲墓地を含む)周辺の丘は
龍ケ尾丘といい、龍が住んでいたという言い伝えがあります。
自分と同じ世代の人であれば、龍の住む丘があると聞けば
すぐに、ドラゴンボールを集めて、南洲神社に上って、3つの願いを叶えようとするかもしれません。
この丘には、初代島津忠久を祀った龍ヶ尾神社があったといわれていますが
この龍ヶ尾から、竜尾の地名に
そして、南洲門前通りの参道を分かれ目として
上座(右側)が上竜尾
下座(左側)が下竜尾となっています。
大竜町
2008年11月29日
大竜町内会よりPRと上町浪漫への激励をいただきました。

大竜町町内会 会長 今林 実嗣さん
(大竜町のPR)
大竜町は、昭和44,5年ごろ、廓(くるわ)町(ちょう)、上竜尾町、下竜尾町、池之上町の一部が合併してできた町です。大龍というのは、15代島津貴久、16代義久の号、大中・龍伯から一字ずつとったものです。
篤姫の生家があるのも、大竜町です。かつての島津一門家や上級武士のお屋敷が多くあった名残か、今でも鹿児島の経済界を代表する方々も多く住んでおられます。市街地に近いわりには、清閑で静かな町です。
(上町のまちづくりに対して)
文化を生かすのか、商業をいかしていくのか、方向性を決めて進んでいく必要があるかもしれません。
やはり、駐車場の確保が一番の課題である。
空き地もあるので、その空間を有効利用し、住民密着型の店舗をつくっていく事で、自分達の町を生かし、活性化していくことになるのではいかと思います。
○編集者よりミニ知識&みどころ
大龍小学校のあるところは、戦国時代から安土桃山時代のころ、約五十年間、島津氏の居城になっていました。それまでは清水中学校の裏山付近にあった清水城が居城でした。
その後、城山のふもとに鶴丸城を築いて移ると、ここにお寺を建て、大龍寺と名づけました。
大龍の名の由来については、今林さんのPRに記載の通りです。
大龍寺の 最初の住職は文之和尚という人でした。
文之和尚は、日向(宮崎県)の生まれで、有名な朱子学者でした。
朱子学は、江戸幕府でも正式な学問とされ、武士であればだれでも学ばなくてはならないほど重要な教えだったのです。京都の東福寺で五年間修業し、帰ってからは、財部の正寿寺などにいました。
島津義久の招きで鹿児島にやってきた和尚は、島津氏にとっては大切な先生となったのです。
義久に続いて弟義弘、義弘の子家久の三代の藩主に仕えるほど大事にされました。
その間、薩摩藩の政治や外交、学問などに大きな影響をあたえました。特に、桂庵玄樹の教えをひろめたことは有名です。まさに、江戸時代はじめの薩摩藩の基礎を築いたともいえそうです。著書には「南浦文集」などがあります。なかでも、種子島久時にたのまれて書いた「鉄炮記」は、日本に最初に伝わってきた鉄砲のことを知るための、たった一つの記録となっています。
1620年に亡くなり、墓は加治木の安国寺にあり、国の史跡に指定されています。
この町には、縄文・弥生の時代から、昭和初期に至るまで多くの史跡が発見されています。
これらは、大竜遺跡群と呼ばれています。
大竜町町内会 会長 今林 実嗣さん
(大竜町のPR)
大竜町は、昭和44,5年ごろ、廓(くるわ)町(ちょう)、上竜尾町、下竜尾町、池之上町の一部が合併してできた町です。大龍というのは、15代島津貴久、16代義久の号、大中・龍伯から一字ずつとったものです。
篤姫の生家があるのも、大竜町です。かつての島津一門家や上級武士のお屋敷が多くあった名残か、今でも鹿児島の経済界を代表する方々も多く住んでおられます。市街地に近いわりには、清閑で静かな町です。
(上町のまちづくりに対して)
文化を生かすのか、商業をいかしていくのか、方向性を決めて進んでいく必要があるかもしれません。
やはり、駐車場の確保が一番の課題である。
空き地もあるので、その空間を有効利用し、住民密着型の店舗をつくっていく事で、自分達の町を生かし、活性化していくことになるのではいかと思います。
○編集者よりミニ知識&みどころ
大龍小学校のあるところは、戦国時代から安土桃山時代のころ、約五十年間、島津氏の居城になっていました。それまでは清水中学校の裏山付近にあった清水城が居城でした。
その後、城山のふもとに鶴丸城を築いて移ると、ここにお寺を建て、大龍寺と名づけました。
大龍の名の由来については、今林さんのPRに記載の通りです。
大龍寺の 最初の住職は文之和尚という人でした。
文之和尚は、日向(宮崎県)の生まれで、有名な朱子学者でした。
朱子学は、江戸幕府でも正式な学問とされ、武士であればだれでも学ばなくてはならないほど重要な教えだったのです。京都の東福寺で五年間修業し、帰ってからは、財部の正寿寺などにいました。
島津義久の招きで鹿児島にやってきた和尚は、島津氏にとっては大切な先生となったのです。
義久に続いて弟義弘、義弘の子家久の三代の藩主に仕えるほど大事にされました。
その間、薩摩藩の政治や外交、学問などに大きな影響をあたえました。特に、桂庵玄樹の教えをひろめたことは有名です。まさに、江戸時代はじめの薩摩藩の基礎を築いたともいえそうです。著書には「南浦文集」などがあります。なかでも、種子島久時にたのまれて書いた「鉄炮記」は、日本に最初に伝わってきた鉄砲のことを知るための、たった一つの記録となっています。
1620年に亡くなり、墓は加治木の安国寺にあり、国の史跡に指定されています。
この町には、縄文・弥生の時代から、昭和初期に至るまで多くの史跡が発見されています。
これらは、大竜遺跡群と呼ばれています。
下竜尾町
2008年10月23日
下竜尾町町内会よりPRと上町浪漫への激励をいただきました。

下竜尾町町内会 会長 鮫島 俊夫さん
(下竜尾町のPR)
高齢者元気,いきいきの町、下竜尾町です。
南洲神社は、上竜尾町ですが
私達下竜尾町住民も南洲神社を、ふるさとのように思い行事があるときは
清掃をしたり、いろいろなお手伝いをしたりしています。
犯罪も少なく、安心、安全に過ごせる町です。
(上町のまちづくりに対して)
現在、私は鹿児島駅周辺ワークショップに参加し
上町活性化のために微力ながら活動しています。
これからは、特に若い人達に、自分の町に関心をもってもらい
魅力あるまちづくり活動に参加していただければと思っています。
○編集者よりミニ知識&みどころ
この辺りに、竜ゲ尾神社というお社があって、島津忠久の神霊を祀ってありました。
また、この付近の古老の話では
大昔鹿児島の山には神竜がすんでいて
現在の南洲神社の付近が竜ケ岡とも呼ばれたことから、現在の地名に由来したのだといわれています。
篤姫でも有名な今和泉島津家本邸跡地から
下竜尾方面に歩いていくと
南洲門前通り、上町南風通り、滑川通りと
住宅地の落ち着いた雰囲気から
活力あふれる商店街へとその街並みが変化します。
その雰囲気を楽しみながら、歩いてみるとおもしろいかもしれませんね。
下竜尾町町内会 会長 鮫島 俊夫さん
(下竜尾町のPR)
高齢者元気,いきいきの町、下竜尾町です。
南洲神社は、上竜尾町ですが
私達下竜尾町住民も南洲神社を、ふるさとのように思い行事があるときは
清掃をしたり、いろいろなお手伝いをしたりしています。
犯罪も少なく、安心、安全に過ごせる町です。
(上町のまちづくりに対して)
現在、私は鹿児島駅周辺ワークショップに参加し
上町活性化のために微力ながら活動しています。
これからは、特に若い人達に、自分の町に関心をもってもらい
魅力あるまちづくり活動に参加していただければと思っています。
○編集者よりミニ知識&みどころ
この辺りに、竜ゲ尾神社というお社があって、島津忠久の神霊を祀ってありました。
また、この付近の古老の話では
大昔鹿児島の山には神竜がすんでいて
現在の南洲神社の付近が竜ケ岡とも呼ばれたことから、現在の地名に由来したのだといわれています。
篤姫でも有名な今和泉島津家本邸跡地から
下竜尾方面に歩いていくと
南洲門前通り、上町南風通り、滑川通りと
住宅地の落ち着いた雰囲気から
活力あふれる商店街へとその街並みが変化します。
その雰囲気を楽しみながら、歩いてみるとおもしろいかもしれませんね。
池之上町
2008年10月08日
池之上町町内会よりPRと上町浪漫への激励をいただきました。

池之上町町内会 会長 森元勝夫さん
今回の上町維新まちづくりプロジェクトの会長でもあります。
(池之上町のPR)
現在、玉龍中・高校がある玉龍山福昌寺は、鴨池競技場4倍の広大な境内があり、南九州随一の隆盛を誇ったと聞いております。
この由緒ある地に暮らせることは、大変誇り高いことであります。
町内会でも、史跡・名所を大事に保存しながら、いつまでも安心して住み続けられるまちづくりを目指しています。
(上町のまちづくりに対して)
鹿児島市の商業圏が南方面(谷山など)に移っています。
かつては、鹿児島駅を中心に、天文館、上町は大変賑わっていました。
今回、この「上町維新まちづくり事業」は、「今のかんまちをなんとかせんないかん!」という思いを胸に立ち上がった有志の人々です。
試行錯誤しながらではありますが、ぜひ皆さん、暖かく見守りながら、応援し続けてください。
○編集者よりミニ知識&みどころ
池之上町の町名の由来は、とってもシンプルです。
会長の話の中でも紹介されたとおり、現在の玉龍高校の場所には 島津家の菩提寺である福昌寺がありました。
そして、その手前には池があり、鯉がおよぎ、蓮の花が咲く極楽浄土のような光景が広がっていたそうです。
その池之上に現在の町が存在しているので、池之上となったそうです。
さて、わたし はるり は
この町で生まれ、この町で育ち 今年で37年目となりました。
いま、このように自分の生まれた町を紹介することになろうは、思ってもいませんでしたし
なんだか、不思議な気持ちです。
世の中はいろんな縁がつながってつくられていると思いますが
この町に生まれた自分の縁は、とても大切に思っていますし
これからも、このご縁を 育てていきたいと思っています。
池之上には、不思議な魅力であふれています。
時代とともに、その多くを失ったようにも思いますが
人が、語り継ぎ、思いをつないでいくことで
その魅力は、さらにますように思います。
池之上町町内会 会長 森元勝夫さん
今回の上町維新まちづくりプロジェクトの会長でもあります。
(池之上町のPR)
現在、玉龍中・高校がある玉龍山福昌寺は、鴨池競技場4倍の広大な境内があり、南九州随一の隆盛を誇ったと聞いております。
この由緒ある地に暮らせることは、大変誇り高いことであります。
町内会でも、史跡・名所を大事に保存しながら、いつまでも安心して住み続けられるまちづくりを目指しています。
(上町のまちづくりに対して)
鹿児島市の商業圏が南方面(谷山など)に移っています。
かつては、鹿児島駅を中心に、天文館、上町は大変賑わっていました。
今回、この「上町維新まちづくり事業」は、「今のかんまちをなんとかせんないかん!」という思いを胸に立ち上がった有志の人々です。
試行錯誤しながらではありますが、ぜひ皆さん、暖かく見守りながら、応援し続けてください。
○編集者よりミニ知識&みどころ
池之上町の町名の由来は、とってもシンプルです。
会長の話の中でも紹介されたとおり、現在の玉龍高校の場所には 島津家の菩提寺である福昌寺がありました。
そして、その手前には池があり、鯉がおよぎ、蓮の花が咲く極楽浄土のような光景が広がっていたそうです。
その池之上に現在の町が存在しているので、池之上となったそうです。
さて、わたし はるり は
この町で生まれ、この町で育ち 今年で37年目となりました。
いま、このように自分の生まれた町を紹介することになろうは、思ってもいませんでしたし
なんだか、不思議な気持ちです。
世の中はいろんな縁がつながってつくられていると思いますが
この町に生まれた自分の縁は、とても大切に思っていますし
これからも、このご縁を 育てていきたいと思っています。
池之上には、不思議な魅力であふれています。
時代とともに、その多くを失ったようにも思いますが
人が、語り継ぎ、思いをつないでいくことで
その魅力は、さらにますように思います。
皷川町
2008年10月06日
皷川町町内会よりPRと上町浪漫への激励をいただきました。

皷川町町内会 会長 寺山健三さん
(皷川町のPR)
高齢者が多いですが、和気あいあいとした明るい町内会です。
「お達者クラブ」というひとり暮らしの高齢者が集まる会が、月2回ありますが、他の町内に比べて男性の参加者が多い町内会です。
史跡として、鹿児島市内方面から、市営バス皷川・吉野線を上っていくと一つ目のカーブを過ぎた道路右側に地蔵菩薩が見えます。
これは、碑文(昭和3年)によると、一乗院(坊津)智恵光院の本尊、聖徳太子作と伝えられている大変ご利益のある地蔵菩薩です。
そのご利益か、この道路はカーブも多く、道も狭いわりには、事故が少ないです。
また、毎年、7月24日は、あいご会の子供たちが灯籠の絵を描き、六月灯を行っています。
(上町のまちづくりに対して)
町内会活動に参加する次世代の人がいないので、会社や公的機関を退職されたOBの方などは積極的に町内活動に参加してくださることを期待しています。
○編集者よりミニ知識&みどころ
皷川町の地名には、二つの説があります。
一つは、近くの川の流れが急で、「たんたどうどう」と音がしていたことから
由来した たんたど という地名がありますが
この音が皷の様だったので、皷川とついた説
そして、催馬楽(せばる)に隼人族が住んでいた頃の儀式で
貢ぎ物をする代わりに、音楽や舞を舞っていて
その皷の音が、この周囲から聞こえていたという説です。
どちらにしても、鼓のような音がこだまする
たのしそうな町だったのかもしれませんね。
(番外編)寺山さんは、よく上町辺りをさっそうと自転車で走っておられます。
見かけた方は、「お〜い、てらやまど〜ん!」と声をかけると危ないので、
「あ〜〜、皷川町内会長さんだぁ〜」と心の中で叫んでください。
私は、これまで20年近く鼓川のつつみという字の右を、支えると思っていましたが、
実は、皮ということを寺山さんから教えていただきました。勉強になりました〜〜。
皷川町町内会 会長 寺山健三さん
(皷川町のPR)
高齢者が多いですが、和気あいあいとした明るい町内会です。
「お達者クラブ」というひとり暮らしの高齢者が集まる会が、月2回ありますが、他の町内に比べて男性の参加者が多い町内会です。
史跡として、鹿児島市内方面から、市営バス皷川・吉野線を上っていくと一つ目のカーブを過ぎた道路右側に地蔵菩薩が見えます。
これは、碑文(昭和3年)によると、一乗院(坊津)智恵光院の本尊、聖徳太子作と伝えられている大変ご利益のある地蔵菩薩です。
そのご利益か、この道路はカーブも多く、道も狭いわりには、事故が少ないです。
また、毎年、7月24日は、あいご会の子供たちが灯籠の絵を描き、六月灯を行っています。
(上町のまちづくりに対して)
町内会活動に参加する次世代の人がいないので、会社や公的機関を退職されたOBの方などは積極的に町内活動に参加してくださることを期待しています。
○編集者よりミニ知識&みどころ
皷川町の地名には、二つの説があります。
一つは、近くの川の流れが急で、「たんたどうどう」と音がしていたことから
由来した たんたど という地名がありますが
この音が皷の様だったので、皷川とついた説
そして、催馬楽(せばる)に隼人族が住んでいた頃の儀式で
貢ぎ物をする代わりに、音楽や舞を舞っていて
その皷の音が、この周囲から聞こえていたという説です。
どちらにしても、鼓のような音がこだまする
たのしそうな町だったのかもしれませんね。
(番外編)寺山さんは、よく上町辺りをさっそうと自転車で走っておられます。
見かけた方は、「お〜い、てらやまど〜ん!」と声をかけると危ないので、
「あ〜〜、皷川町内会長さんだぁ〜」と心の中で叫んでください。
私は、これまで20年近く鼓川のつつみという字の右を、支えると思っていましたが、
実は、皮ということを寺山さんから教えていただきました。勉強になりました〜〜。
春日町
2008年10月03日
春日町町内会よりPRと上町浪漫への激励をいただきました。

春日町町内会 会長 松田弘さん
(春日町のPR)
「歴史と人情の町 春日町」です。
地域の人々が気軽に話し合い、協力し合える明るい、安心して住める町です。
(上町のまちづくりに対して)
やはり歴史の町ですから、まずは地元の人が地元の歴史を知り、掘り起こし、史跡名所を案内していけるようなことができればいいと思います。
○編集者よりミニ知識&みどころ
いまから千年以上前、春日神社が建てられました。
春日神社は、奈良の春日神社の分神を祀った神社で、東福寺城(現在の多賀山)を築いた長谷場氏が氏神として祀っていたといわれています。
本来藤原氏の氏神である春日神社が、この場に築かれたことで
長谷場氏、矢上氏が、藤原家の子孫であると称していることと結びついているのかもしれません。
その春日神社がこの地名の由来となっています。
この神社の目の前には、日本の初内閣ができた時の初代文部大臣 森有礼の誕生碑があります。
明治維新を成し遂げた薩摩の若人は、豪快で、熱血な性格が多かったような気がしますが
その時代に文化人として名を残した森有礼は、薩摩では異質な存在であったのかもしれません。
また、有礼は、森家では末っ子
長男の有秀は禁門の変の戦陣で没し、次男喜八郎は26歳の若さで病死、三男安武も横山家養子となった為
森姓を末っ子の有礼がつぐことになりました。
三男安武も、日本の近代化がすすむ中での、合理的な思想は欠かすことのできない人物で
薩摩藩校造士館を首席で卒業、藩主の弟忠経の補導役に抜擢された経歴の持ち主です。
しかし、時代は安武をも長く生かすことはできませんでした
明治3年7月、明治政府の混迷と世情の不穏に危機感を抱き、建白書を衆議院門扉にかかげて、自刃します。
日本が重要な転換期にあるなかでの混迷を憂い
自らの命をもって、それをただそうとしました。
このとき28歳の若さでした。
薩英戦争を経験している横山安武は、攘夷の実行や海外思想の批判よりも
外交交渉によって行うべきという思想は、陽明学を学んだ彼が広い視野をもった人物であったことを物語るとともに
弟である有礼にも大きな影響を与えたのではないでしょうか。

春日町町内会 会長 松田弘さん
(春日町のPR)
「歴史と人情の町 春日町」です。
地域の人々が気軽に話し合い、協力し合える明るい、安心して住める町です。
(上町のまちづくりに対して)
やはり歴史の町ですから、まずは地元の人が地元の歴史を知り、掘り起こし、史跡名所を案内していけるようなことができればいいと思います。
○編集者よりミニ知識&みどころ
いまから千年以上前、春日神社が建てられました。
春日神社は、奈良の春日神社の分神を祀った神社で、東福寺城(現在の多賀山)を築いた長谷場氏が氏神として祀っていたといわれています。
本来藤原氏の氏神である春日神社が、この場に築かれたことで
長谷場氏、矢上氏が、藤原家の子孫であると称していることと結びついているのかもしれません。
その春日神社がこの地名の由来となっています。
この神社の目の前には、日本の初内閣ができた時の初代文部大臣 森有礼の誕生碑があります。
明治維新を成し遂げた薩摩の若人は、豪快で、熱血な性格が多かったような気がしますが
その時代に文化人として名を残した森有礼は、薩摩では異質な存在であったのかもしれません。
また、有礼は、森家では末っ子
長男の有秀は禁門の変の戦陣で没し、次男喜八郎は26歳の若さで病死、三男安武も横山家養子となった為
森姓を末っ子の有礼がつぐことになりました。
三男安武も、日本の近代化がすすむ中での、合理的な思想は欠かすことのできない人物で
薩摩藩校造士館を首席で卒業、藩主の弟忠経の補導役に抜擢された経歴の持ち主です。
しかし、時代は安武をも長く生かすことはできませんでした
明治3年7月、明治政府の混迷と世情の不穏に危機感を抱き、建白書を衆議院門扉にかかげて、自刃します。
日本が重要な転換期にあるなかでの混迷を憂い
自らの命をもって、それをただそうとしました。
このとき28歳の若さでした。
薩英戦争を経験している横山安武は、攘夷の実行や海外思想の批判よりも
外交交渉によって行うべきという思想は、陽明学を学んだ彼が広い視野をもった人物であったことを物語るとともに
弟である有礼にも大きな影響を与えたのではないでしょうか。
清水町
2008年10月01日
清水町町内会よりPRと上町浪漫への激励をいただきました。

清水町町内会 会長上村敏郎 さん
(清水町のPR)
「未来の人材を育む 誇りある街 清水町」 です。
また、仁王堂水の水は大変美味しく、遠くは姶良から汲みにこられる方もいます。
皆さん、ぜひ一度、この美味しい水を飲んでみてください。
(上町のまちづくりに対して)
人が集まる何かを作れればと思っています。
例えば、鹿児島駅に駅ビルを建てて、1階をバスターミナル、2階をショッピングモール、3階を居住スペースにしてみるのなんかどうでしょう。
○編集者よりミニ知識&みどころ
全国各地に清水町という地名は存在していますが
そのどこの場所にも負けないだけの歴史と文化の宝庫ともいえる鹿児島の清水町です。
鹿児島の町並みは、この場所から広がっていったと考えられています。
町内会長さんも紹介している清水小学校の前の仁王堂からは
きれいな水が湧き出ていて、この水は「仁王堂の清水」呼ばれ
そこから清水と言う地名がついたそうです。
また、仁王堂の前から 国道10号線に向かう道路は、清水馬場といわれ
10数年前までは、毎年8月下旬に、諏訪神社(南方神社)のお祭りである諏訪市が開かれ
県内各地より、農機具や台所用品などを求めに多くの人たちが訪れていました。
現在NHK大河ドラマで話題となっている篤姫の今和泉島津の下屋敷跡地もこの場所にあります。
同じ明治維新で活躍し、幕末四大人斬りとおそれられた中村半次郎のちの桐野利秋の住居もこの辺りにあったそうです。

清水町町内会 会長上村敏郎 さん
(清水町のPR)
「未来の人材を育む 誇りある街 清水町」 です。
また、仁王堂水の水は大変美味しく、遠くは姶良から汲みにこられる方もいます。
皆さん、ぜひ一度、この美味しい水を飲んでみてください。
(上町のまちづくりに対して)
人が集まる何かを作れればと思っています。
例えば、鹿児島駅に駅ビルを建てて、1階をバスターミナル、2階をショッピングモール、3階を居住スペースにしてみるのなんかどうでしょう。
○編集者よりミニ知識&みどころ
全国各地に清水町という地名は存在していますが
そのどこの場所にも負けないだけの歴史と文化の宝庫ともいえる鹿児島の清水町です。
鹿児島の町並みは、この場所から広がっていったと考えられています。
町内会長さんも紹介している清水小学校の前の仁王堂からは
きれいな水が湧き出ていて、この水は「仁王堂の清水」呼ばれ
そこから清水と言う地名がついたそうです。
また、仁王堂の前から 国道10号線に向かう道路は、清水馬場といわれ
10数年前までは、毎年8月下旬に、諏訪神社(南方神社)のお祭りである諏訪市が開かれ
県内各地より、農機具や台所用品などを求めに多くの人たちが訪れていました。
現在NHK大河ドラマで話題となっている篤姫の今和泉島津の下屋敷跡地もこの場所にあります。
同じ明治維新で活躍し、幕末四大人斬りとおそれられた中村半次郎のちの桐野利秋の住居もこの辺りにあったそうです。
稲荷町
2008年09月29日
稲荷町町内会よりPRと上町浪漫への激励をいただきました。

稲荷町内会 会長 小島 三郎さん
(稲荷町のPR)
現在の清水中学校は、1384年、第7代島津元久が、多賀山城から清水城に居を移して、150年間島津氏の居城となったところです。
そのため、稲荷町の大部分は城郭と武士の居住地として発展してきた、鹿児島市発祥の町です。
(上町のまちづくりに対して)
少子高齢化時代の対応と地域に根ざした明るい住みよい、安全な環境づくりにつとめ、町内、近隣の親睦が深められる上町にしていきたいですね。
○編集者よりミニ知識&みどころ
稲荷町の名前の由来は、島津9代忠国が建てた稲荷神社の名前をとってこの町名がつけられました。
明治三二年稲荷馬場町という名称から、稲荷町へと改められました。
稲荷神社は、初代忠久の母が、鎌倉を追われて大阪の住吉神社にたどり着いたときに
急に産気づいて忠久が生まれるのですが、このとき、暴雨風の中を守ってくれたのが
稲荷大明神の狐火(きつねび)だったといわれています。
自分を守ってくれた稲荷大明神を大切にしようと
出水の山門院、東市来の湯田、都城の3箇所に稲荷神社を建て
そのうち湯田から移されたのが現在の稲荷神社です。
この地区には、良質の石が多く、石切場も存在していました。
また、滝の神水源地の近くには、水神様も祀ってあり
石や水との関係にも注目してこの町を歩いてみると楽しいと思います。
また、現在の清水中学校は、清水城や大乗院の跡地であり
その内容が書かれた案内板も設置してあります。

稲荷町内会 会長 小島 三郎さん
(稲荷町のPR)
現在の清水中学校は、1384年、第7代島津元久が、多賀山城から清水城に居を移して、150年間島津氏の居城となったところです。
そのため、稲荷町の大部分は城郭と武士の居住地として発展してきた、鹿児島市発祥の町です。
(上町のまちづくりに対して)
少子高齢化時代の対応と地域に根ざした明るい住みよい、安全な環境づくりにつとめ、町内、近隣の親睦が深められる上町にしていきたいですね。
○編集者よりミニ知識&みどころ
稲荷町の名前の由来は、島津9代忠国が建てた稲荷神社の名前をとってこの町名がつけられました。
明治三二年稲荷馬場町という名称から、稲荷町へと改められました。
稲荷神社は、初代忠久の母が、鎌倉を追われて大阪の住吉神社にたどり着いたときに
急に産気づいて忠久が生まれるのですが、このとき、暴雨風の中を守ってくれたのが
稲荷大明神の狐火(きつねび)だったといわれています。
自分を守ってくれた稲荷大明神を大切にしようと
出水の山門院、東市来の湯田、都城の3箇所に稲荷神社を建て
そのうち湯田から移されたのが現在の稲荷神社です。
この地区には、良質の石が多く、石切場も存在していました。
また、滝の神水源地の近くには、水神様も祀ってあり
石や水との関係にも注目してこの町を歩いてみると楽しいと思います。
また、現在の清水中学校は、清水城や大乗院の跡地であり
その内容が書かれた案内板も設置してあります。