山城としての清水城

2012年09月16日

 第3回鹿児島清水城ガイド養成講座が、稲荷町公民館で9時半~11時半まで開催されました。

台風も接近し、風雨が激しい天候にもかかわらず、朝早くから30名近い熱心な山城ファンの方々が、三木靖先生の講義に、耳を傾けておられました

本日は、清水城を使い始めた島津元久(1384~1387)が、清水城に移り住む前に住んでいた志布志城と、
1550年に島津貴久が清水城を使い終わりとして、その貴久の出身地である伊作城の両城と対比した鹿児島清水城の講義でした。

興味をひいた内容は、現在私達が使っている「縄張」や「廓(くるわ)」(今、若い人が知っているかは定かではありませんが)という言葉は、山城に使われている言葉に由来する、ということでした。

「縄張」という言葉は、反社会的意味で使われることが多いですが、決してそうではなく本来は漢字が示すとおり、城の境界に縄を張って敷地の位置を定めていたことに由来するのだそうです。

また「廓」は、「曲輪」で、城や砦の中など、一定の区域の周囲に築いた土や石のかこいのことだそうです。
その「かこう」ということから、江戸時代に男性、武士社会の中で女性を囲う「廓」に変わっていったようです。

中世の城づくりは、城主の権威誇示のための城つくりに住民が労役を課せられるというものではなく、庶民がいざという時に逃げ込めるための安全の拠り所、避難所としての役割があったので、お城周辺の人々みんなで城づくりに参加した、という時代だったようです。

清水城の保存、整備という視点から、中世の人々の暮らしぶりなども知ることができ、当時の人々を身近に感じた一瞬でした。

山城としての清水城





Posted by 上町維新 at 22:10│Comments(0)
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